マッシュルームオムレツ(『ノルウェイの森』村上春樹)
「ワタナベ君、でしょう?」
僕は顔を上げてもう一度相手の顔をよく見た。しかし何度見ても見覚えはなかった。彼女はとても目立つ女の子だったし、どこかで会っていたらすぐ思いだせるはずだった。それに僕の名前を知っている人間がそれほど沢山この大学にいるわけではない。
「ちょっと座ってもいいかしら?それとも誰かくるの、ここ?」
僕はよくわからないままに首を振った。
「誰も来ないよ。どうぞ」
彼女はゴトゴトと音を立てて椅子を引き、僕の向いに座ってサングラスの奥から僕をじっと眺め、それから僕の皿に視線を移した。
「おいしそうね、それ」
「美味いよ。マッシュルーム・オムレツとグリーン・ピースのサラダ」
「ふむ」と彼女は言った。
「今度はそれにするわ。今日はもう別のを頼んじゃったから」
(『ノルウェイの森』村上春樹)
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1987年に刊行された、大人気作家の大ベストセラー。37歳になった僕「ワタナベ」が回想する形で、1960年代の終わり、学生運動の中で大学生活を過ごしていた18歳から20歳頃が語られていく。
高校時代に親友の突然の死を経験し、その親友の彼女だった「直子」と1年後に偶然再会、2人の関係は始まっていく。東京の道を、2人でなにとはなく話しながら、ただただ歩く楽しさの影で、直子の心は深く病んでいた。流れる時間の中には、寮の同居人や先輩、そして同じ講義を受けている1年生の「緑」や、療養する直子のルームメイト「レイコさん」など、ワタナベは自分を取り巻く人々と様々なドラマを共有していく。
マッシュルーム・オムレツを食べているこの場面は、のちに深くワタナベの人生に関わっていく、同じ大学の女子学生・緑と初めて出会ったときである。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
ワタナベの心には、常にこの言葉が在り続けている。物語の中にも、その死生観が常に横たわっている。
初めて本を手にしたのが、高校1年生。2度目が大学の頃、そして回想する「ワタナベ」と同じ年の頃になった今、物語を読み返すと、分かったつもりで読んでいたかつての自分が、本当はよくわからずに読んでいたのだと、実感する。なぜそこでセックスをするのか。かつて子どもだった頃に疑問や違和感を覚えた場面の答えが、今なら出せる気がする。
静かな、静かな物語。読み返してもまた、名作。